エコロジーライフとエコポリスとお茶

※記念誌発刊時(2015年4月)当時の内容をそのまま掲載しています。

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日本茶業中央会会長
(公社)大日本報徳社社長
榛 村 純 一

このたびエコロジーライフ研究会が発足して15年の記念誌を作成するとお聞きし、この地道な活動や研究を続けて来られたことに心から敬意を表します。

  掛川市は全国最初の「生涯学習都市宣言」をしたまちですが、その宣言のテーマとプロジェクトは、10年計画で18項目もありました。それらの中には、エコロジーライフ研究会が深め、実践してほしいことが、3~4項目ほどありました。即ち7番目の「農業・農地・農村・農民・農家・農協をよく育てていく10年」と10番目の「川・池・水と人間の関係で潤いのある生活を求める10年」と11番目の「自然と水源地域を保護し、美しい環境づくり、緑をいっぱいにする10年」の三つでした。そして更に12番目に「土地利用・線引きを利用協定にまで高め、都市・農村一体化計画をすすめる10年」を加え、生涯学習まちづくりの最終目標を「自然と農住商工と福祉・レクリエーション施設が美しく共存した考え深い市民の大勢いる都市」としました。幸い地方の時代、地方分権の追い風に遇い、市民の心もよくまとまり、30億円募金を柱に「新幹線掛川駅」や東名掛川インターの開設が実現しました。しかし一方で、農業・農村の衰退や変質がすすみ、先に掲げたテーマとプロジェクトを否定する現象がすすみました。

 昭和30年頃までの掛川の里山地域は、溜池谷田棚田文化で、ドジョウ・オツボ・シジミもたくさんいて、遊びも食事もそれなりに自然豊かでした。それが農薬、化学肥料、土地改良等により絶滅し、掛川の川にはアユの遡上もなくなりました。

 そして昭和40年代の後半、ローマクラブの環境学者達が、人類は、人口、食料、資源、環境の四つのどれかから成長の限界にぶつかるとの警告が紹介されました。

 私が市長に就任した昭和52年(1977)は四つの限界のうち資源の限界である石油ショックにあったときでしたが、農村の変貌と農業の不振にあって、市民は雇用を増やすことと企業誘致が強く求められていました。

 そこで思い切って広い工業団地を造成して、民間活力で工場用地の予約販売を始めました。

掛川の里山地帯は波及山林地帯といって、海抜100m~200mに小さい山川の地形をつくり、切り土と埋め土でプラス・マイナスゼロで平地ができることが、大型土木機械でできるようになっていました。そこで東山口の千羽地区から粟本、西山口にかけて100ヘクタールの工場用地12区画を造り売り出しました。商品には開発理念が大切ですので、その工場団地を「エコポリス」と名付けました。当時、浜松市の団地はテクノポリス(技術集積団地)と言っていましたが、それは和製英語で外国人には通じず、エコポリスはエコロジーと都市と合わせたもので、欧米でも通じ、12区画の用地がまたたく間に売れ切れました。用地には小魚や昆虫

や珍しい植生もあったでしょうが、これらを工場用地にして殺してしまったことを後ろめたく思いつつも、エコポリスという新しい概念が生涯学習都市の理想像になり、早く完売されたことを喜ばしく思いました。かくしてエコポリスはエコライフの市民運動に深化したと思うのです。平成14年11月にスローライフ月間in掛川をスタートさせ、113本のイベントを行い、エコロジーライフの方々のいくつかも楽しいイベントになりました。

 一方、エコライフやエコロジー尊重は、報徳思想と共通するものをもっていますので面白いテーマになります。報徳の四大綱領の一つ「分度」は、エコロジーを尊重することであり、物を粗末に消費しないことだからです。

 掛川市は2,360ha の茶園と茶商43社をもつ有力なお茶のまちです。そういう因縁によって、いま私は4年前から日本茶業中央会の会長を仰せつかっています。同中央会は、その茶業振興の施策として以下の五路線を掲げています。それらは、①和産・和消・和食路線、②文化・美学・癒やし路線、③機能・効能・長寿路線、④食育・撫育・徳育路線、⑤倫理・エコ・愛郷路線の五つです。日本茶はこれから日東地区の茶草場が世界農業遺産になったように、倫理的エコ商品として健康長寿飲料として、一日6グラム、一年2キロ愛飲されるようにしたいと思います。  とりとめのないスローライフ・エコライフ論となりましたが、今後の生涯学習のテーマとして、その重要性がエコライフ研究会の活動によってPRされ深まることを願っております。